雑文「人間はなぜ演技をするのだろうか?」


2週間ぐらい前に書いた文章で、
ほんとはユーラルームのあとがきに乗せるつもりだったけどまぁいいや。
夏ゲもテーマにも通じるところのある文章なので、もう乗せちゃう。

ネタバレとかは特にありません。たぶん。




人間は、なぜ演技をするのだろうか?
演技をする動物は、実は人間だけではない。
母鳥は、親子で捕食者に襲われた際、
怪我をしている『演技』をして、雛を逃がすという。
また、飼い犬は、かつて具合が悪かった際に、優しくしてもらった経験を思い出し
まれに「病気である」演技を行う場合があるという。

人間も同様である。
他者より、『強いふり』『弱いふり』を行うのはもちろんのこと、
例えば『未婚であるふり』『元気がないふり』『異性との経験がないふり』『あるふり』を
日常的に行っているともいえる。
演技は会話、コミュニケーションの一種であるとも言えるだろう。

さて、『演劇』についてはどうであろうか。
人類史を見渡す限り、例外なくどの国、どの地域にも『演劇』という行為が発生する。
まるで、人間が『ものを食べる』『国を作る』『言語が発生する』『集団の中に地位が発生する』『文字が発生する』
のと同じように『演劇』が生まれているのである。

ある地域では、それは神に捧げる神聖な儀式であった。
ある地域では、民衆が日常的に親しむ娯楽であった。
ある地域では、特別な祭のときにのみ行われるものであった。

ここで最初の質問に立ち返る。
『人間はなぜ演技をするのだろうか?』





コミュニケーションにおける演技と、演劇の演技は別である。
演劇には、あらかじめ書かれた『台本』というものがあるからだ。
その台詞を覚えることから演劇は始まる。

発声方法は、普段している会話とは違った声の出し方だ。
イントネーションも、言葉回しも違う。
立ち回りも、動作も、『仰々しく』『演技を行うように』行うのである。
もし、舞台の上で日常動作がそのままで行われた場合が、
その演劇は非常に見づらく、見苦しいものとなるだろう。
(これはテレビ番組、ドラマにおいても同様に言えることである)


舞台に立ったときの緊張感。
スポットライトや、照明のあたる舞台からは、観客席は真っ暗に見える。
かろうじて、前のほうの席の顔が、舞台の光の反射によってぼんやりと見える程度だ。
目が慣れててくると、狭い劇場ならば観客席の端から端まで見渡せるようになるだろう。
しかし、広い劇場での場合は?
何も見えない。底なしの『闇』が、光の外側に広がっているだけなのである。

どんな役者も、舞台の上では恐怖する。その闇が、深ければ深いほどに。
しかし、その恐怖と緊張とは何なのだろうか?
その緊張とは『嘘をついている』緊張なのだろうか。
演技とは、嘘をつくことなのだろうか?

演劇を行うことは、ある種の恍惚状態に似ている。
長く長い劇であるほど、長い長い台詞を口に覚えさせなければならない。
口で。動作で。耳で。
役者は台詞を覚える。

本番、口から流れ出すようにあふれてくる台詞を、
耳の奥では、たしかに言語と感じながら、
その一方で言葉として認識することが出来ない。
言語の、音のゲシュタルト崩壊に近い。

しかしある瞬間に、はっとする。
自分が発しているのは『言語』なのだと。
意味を持つ、伝える、言葉なのであると。

唐突に、覚えこませた台詞が出てこないことがある。
一瞬の間が、永遠のように感じる。
瞬間は永遠だ、とどこかの詩人が言った。それを身を持って感じることになるのだ。

台詞を忘れ、次の動作を忘れ、
瞬間と客席の闇に取り残されたときの、
あの恐怖と緊張感。
体のこわばりと、首筋の後ろから踵の付け根まで、氷の雷が走るような、あの瞬間は。
「ついていた嘘がばれた」時と、とても似ている。

ここで最初の質問に立ち返る。
『人間はなぜ演技をするのだろうか?』




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